豊臣秀吉の死で文禄·慶長の役が終わった。 しかし、平和は実現しなかった。 まもなく日本内部は葛藤と対立の中に陥った。 武装派と文治派が対立し、豊臣家と徳川家が対立した。 ついに日本全域は西軍と東軍に分かれ、関ヶ原で激突した。 この戦闘で勝利した人が日本の支配者になるはずだった。 壬辰倭乱(文禄·慶長の役)が終わって1年10ヵ月ぶりのことだった。
1. 豊臣家の悲劇
戦国時代の日本を統一した豊臣秀吉は53歳で年老いて生んだ息子を授かった。 その息子の名前は鶴松だった。 しかし鶴松は先天的に病弱で生後2年で亡くなってしまう。 秀吉は非常に悲しんだが、彼としてはこれ以上後継者選定を先送りすることはできなかった。 したがって、彼は妹の息子秀次を養子にし、後継者として掲げた。 その一環として秀吉は秀次に関白の職を継がせ、彼自身は関白の上の太閤となって君臨した。 そんな中、彼は新しい息子を授かることになり、息子の名前は秀頼だった。 秀吉の実の息子が生まれると、既存の秀次の立場は非常に危うくなった。 秀吉にとって養子で甥でもある秀次は、もはや実の息子秀頼の障害に過ぎなかった。 そんな中、秀次が有力領主たちにお金を貸すと、秀吉はそれを口実に謀反の疑いをかぶせた。 粛清だった。 粛清は一瀉千里に進み、秀次一家は文字通り滅門の災いにあった。 また、関わった有力領主たちまで秀吉が粛清しようとすると、徳川家康が直接出て彼らを救った。 後に、この有力な領主たちは徳川家康を積極的に支持することになる。 そんな中、紀元後1598年、豊臣秀吉が死亡した。 これで文禄·慶長の役が終わった。 彼の息子秀頼が5歳になる年だった。
2. 武装派と文治派の対立
一方、豊臣政権内部では武装派と文治派が対立していた。 武装派は豊臣秀吉を軍事的に助け、壬辰倭乱にも参加した勢力だった。 反面、文治派は戦闘以外の行政、経済、兵站、宗教などで豊臣秀吉を補佐した。 特に、豊臣秀吉の最側近だった石田三成は文治派の筆頭として融通が利かず好き嫌いが明らかな性格だったが、多数の武装派領主たちが彼を嫌った。 特に加藤清正は彼を憎んでいた。 豊臣秀吉の死後、日本一の実力者は徳川家康だった。 しかし、彼は自分の思い通りに日本を操ることはできなかった。 秀吉は生前、5人の有力な領主を五代に選び、自分の死後、自分の息子秀頼を補佐させた。 同時に、五大路は家康に対する牽制装置でもあった。 特に、五代の一人である前田利家は、豊臣政権のナンバー2であり、秀吉の盟友だった。 前田利家は豊臣政権の守護者として徳川家康を牽制し、武将派と文治派の間を仲裁した。 そんな中、紀元後1599年に前田利家が死亡した。 以後、武装派と文治派の対立は激化し、ついに加藤清正らの武装派が石田三成を襲撃する事件が起きた。 これに対し石田三成は普段自分が憎んでいた徳川家康に助けを要請し、家康が両者を仲裁した。 その後、家康は彼を佐和山城まで警護したが、同時に彼を五奉行職から一方的に罷免した。
3. 忍耐の達人
紀元後1586年頃、徳川家康は豊臣秀吉に服従したが、彼の勢力は依然として侮れなかった。 したがって、秀吉は家康の勢力を弱めるために、当時僻地だった関東地方に彼の領地を変更した。 しかし、家康は関東地方を立派に発展させて金の国にし、彼の以前の領地に対する影響力も失わなかった。 これにより、彼は日本で最も強力な領主となった。 一方、家康は壬辰倭乱の間に随時朝鮮に出兵することは勧められたが、関東地方の経営と反乱鎮圧を名分にこれを拒否した。 そうすることで他の領主の軍事力が壬辰倭乱によって弱まっている時、彼はその間自分の軍事力を完全に保全することができた。 また、豊臣秀吉が死亡した時も、彼は性急に動かなかった。 豊臣政権の最後の砦ともいえる前田利家まで亡くなると、彼はようやく自分の野心を表わし始めた。 徳川家康は自らの勢力を結集し始めた。
4. 東西大戦
一方、石田三成も徳川家康に対抗して反徳川勢力を糾合していった。 そんな中、会津の上杉景勝が中央政府に対抗して不穏な動きを見せると、家康はこれを討伐しようと会津に出兵した。 すると、これを機に考えた石田三成が挙兵した。 会津に向かった家康はその知らせを聞くと、方向を変えて西に進軍した。 石田三成は途中で豊臣派の領主たちが彼を牽制すると予測したが、彼らは皆徳川家康に渡った。 そして石田三成の予想よりはるかに早く両軍が遭遇し、両軍は関ヶ原で激突した。 壬辰倭乱(文禄·慶長の役)が終わって1年10ヵ月ぶりのことだった。 よく石田三成の軍を西軍、徳川家康の軍を東軍と呼ぶ。 両軍の兵力規模は西軍が10万4千人であり、東軍が8万2千人だった。 布陣を見てみると、西軍は笹尾山、天満山、松尾山、南区山などに布陣し、鶴翼鎮の形勢を取った。 反面、東軍の形勢はその鶴翼鎮に入るような布陣だった。 したがって兵力規模と布陣だけを見ると、西軍が有利だった。 紀元後1600年10月21日、両軍の戦闘が繰り広げられた。 戦闘序盤には両軍が二転三転した。 そうして正午頃、徳川家康が西軍の小早川英明の陣営に射撃を加えると、驚いた小早川英明が西軍を裏切った。 実は家康は戦闘前から小早川英明を懐柔していた。 戦闘中盤まで小早川英明は西軍と東軍の間で葛藤していた。 しかし、徳川家康から威嚇射撃を受けると、彼は東軍に加わることを決めたのだ。 小早川秀明が西軍を裏切ると、他の領主たちも次々と裏切られ始めた。 実は徳川家康は他の領主たちも懐柔していたのだ。 その時から戦況は急激に東軍に有利になり、結局西軍全体が崩壊し始めた。 戦いの後、石田三成は捕らえられ処刑された。
5. 勝利する軍隊は勝って戦う
実際、石田三成の敗北は予定通りだった。 西軍はすでに戦闘前からぎくしゃくしていた。 石田三成の望みがほぼ底をついていたため、彼は仕方なく森輝元を名目上の総大将に立てて軍を集めることができた。 すでに指揮体系から二元化されていたのである。 そしてその名目上の「総大将」はついに戦場に現れなかった。 さらに、西軍の領主の中で無理やり参加した人も多かったが、石田三成は彼らを掌握する能力がなかった。 したがって、西軍の領主たちは戦闘中の味方を助けるどころか、手をこまねいたり非協力的な態度を取った。 そして、ついに相次いで裏切るに至ったのだ。 孟子が言うには「天時は地理だけでなく、地理は人和だけではない」と言ったが、西軍がまさにこのような場合だった。 一方、東軍は徳川家康を中心に団結していた。 西軍はもちろん東軍側にも豊臣秀吉の家臣が多かったが、東軍側の豊臣秀吉の家臣は石田三成を除去するというただ一つの目的で東軍に加担した。 合わせて徳川家康は随時に西軍側の領主たちを懐柔し、少なくない西軍側の領主たちがここに揺れていた。 孫子の兵法によれば「勝利する軍隊は勝っておいて戦い、敗北する軍隊は戦った後に勝利を救う。」という。 徳川家康はすでに戦う前に勝った状態だった。
6. 最後の勝者
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康を指して、日本人は「全国3英傑」と呼ぶ。 日本の戦国時代にはこれら3人をはじめとして数多くの群雄たちが角逐し、結局の徳川家康が最後の勝者となった。 彼はチャンスが来るまでうかつに動かなかった。 もちろんミスもしたが最後まで生き残り、機会が来るまで着実に自分の力を育てた。 豊臣秀吉の死後も彼は慎重だった。 前田利家まで亡くなると、彼はついに起き上がり、関ヶ原で優れた能力を発揮して勝利した。 関ヶ原で勝利した徳川家康を阻止できる人は、もはや日本の中にはいなかった。 名実共に日本一の実力者になったのだ。 その後、彼は将軍となり、自らの拠点である江戸に幕府を設立した。 これで265年にも幕府が開かれた。 それこそ忍耐の勝利だった。 その後、彼は法光寺宗命事件を口実に豊臣秀頼のいる大阪城まで攻撃し、豊臣家を滅ぼしてしまった。 そんな言葉がある。 「織田が米をついて羽柴(とよとみ)が練り上げた天下という餅、苦労せずに食べたのは徳川」
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